「退屈する」ことの重要性
子供たちを優秀にしようとするあまり、私たちは子供たちを退屈させることをやめてしまったようです。
退屈することを教師が推奨するのは、直感に反するように聞こえます。私(Ms. Darby)は30年以上、子供たちの学習を支援してきて、私は子供たち全員に、自分の能力を最大限に発揮してほしいと願っています。私は、子供たちが話し方、数え方、読み方から、聴衆の前でのパフォーマンス、代数学や三角法、大学レベルの論文の書き方まで、あらゆることを学ぶのを助け、生徒たちの素晴らしい成功を見てきました。私は、IBディプロマ、学士号、修士号を取得した熱心な学生であったと自負しています。また私の生徒たちにも、学ぶことを好きになり、学業に集中して努力できるようになってほしいと願っています。ではなぜ、私は子供たちが退屈する時間を増やし、スクリーンや公文のような追加レッスンに費やす時間を減らしてほしいと願うのでしょうか。
「子供たちが退屈を感じないようにすることは、子供たちが悲しんだり、イライラしたり、怒ったりしないようにすることと同じように、見当違いです」と臨床心理学者のステファニー・リーは言っています。実際、退屈は子供に貴重なスキルを身につけさせます。まず、あまり理想的でないような経験に対する耐性を養うことができます。彼女は、「退屈はそれほど苦痛ではないかもしれませんが、楽しいものではありません。人生では、物事が思い通りに進まないときに、フラストレーションをコントロールし、感情を調整する必要があります。退屈さは、そのスキルを教えるとても良い機会です」と説明しています。
親として私たちは、子供たちが将来に向けてできる限りの準備をしてほしいと願っています。学校でよい成績を出してほしい。学ぶべきことはすべて学んでほしい。大学に進学し、自分自信の面倒が見られるような職業に就き、できれば快適な生活を送り、充実した日々を送ってほしい。そして、ここで私たちは道を踏み外すことがあります。私たちの善意が、不幸な結果を招いてしまうのです。
21世紀の学習は、19世紀や20世紀のそれとは本質的に異なっています。学校はもはや、限られた仕事やキャリアへのパイプラインではありません。世界は凄まじい速度で変化しています。今の若い世代が大人になったときに、どんな職業に就いているかわからないので、今、学校は単純なキャリアのためだけの準備を生徒にしているだけでは、十分ではなくなっています。私たちは皆、前例のない急速な技術発展の時代に生きていることを知っていますが、子供たちの将来を考えるとき、その進路や選択を私たちと同じように想像してしまいがちなのはなぜでしょうか。まさか自分が授業計画にAIを使うようになるとは想像もしていなかったし、教師を助けるAIを開発する職業に就く人がいることも想像していなかったでしょう。
将来、子供たちがどのようなキャリアを歩むかにかかわらず、必要だとわかっていることがいくつかあります。これらはすべて国際バカロレアの枠組みによってサポートされていますが、飽きっぽいという観点から、私は特に2つの「学習の方法」、つまり批判的思考と創造的思考に焦点を当てたいと思います。
特に21世紀においては、情報を記憶したり思い出したりすることが重要でないことは明らかです。私たちは皆、ポケットにコンピューターを入れて歩き回っています。覚えていない情報を引き出すために、携帯電話やコンピューターをチェックする頻度について考えることさえほとんどありません。情報を思い出す際に、自分の誤った記憶や他人の言葉に頼る必要がなくなったのは、信じられないほど便利なことです。世界中のあらゆる情報が、私たちの指先で手に入るようになりました。
しかし、私たちはその情報をどう活用すればいいのでしょうか?
私たちはまた、情報化時代によって人々が簡単に騙され、陰謀論や有害なトレンド、分断的なイデオロギーの餌食になるのを見てきました。これだけ情報があふれているのに、どうして人々はこれほどまでに誤った情報の餌食になってしまうのでしょうか。子供たちが必要な情報を見つけ、虚構と真実を見分け、見つけた情報をどう扱うべきかを知ることができるようにするには、どうすればいいのでしょうか。答えは、私たちが子供たちが批判的で創造的な思考力を身につけられるよう手助けをすることです。その重要な方法のひとつが、退屈することなのです。
もちろん学校では、生徒たちが批判的思考力を身につけるよう指導しています。情報の探し方、情報源の吟味の仕方、ウェブサイトやオンライン・コンテンツの危険信号の見つけ方などを生徒に教えることは、ICTカリキュラムの重要な部分です。しかし、教育研究が示しているように、私たちは実際に生徒に情報を与えるのではなく、学ぶための環境と機会を作るのです。子供を含め、人は基本的に、新しい情報や経験に触れ、その情報を以前の学習に統合することで、頭の中で学習を組み立てていることが研究で明らかになっています。そこで、退屈であることが重要になってくるのです。
子供たちが新しい情報を以前の学習と統合するためには、他のことに集中するよう求められていない時間が必要です。新しい学習について批判的に考え、以前の考えや誤解に挑戦する時間が必要なのです。新しい情報が長期記憶に移ったり、理解の一部として定着したりする前に、じっくりと向き合う時間が必要です。だからこそ、テストのための詰め込み学習は、プロジェクト(特に誰かが取り組みたいプロジェクト)に取り組むのと同じような長期的な学習を生み出さないのです。そして、誰かが何かについて批判的に考えることを許されるたびに、彼らの批判的思考力は強くなっていきます。クリティカル・シンキングを学校での直接的な方法でサポートすることはできますが、直接的な指導の外でクリティカル・シンキングを身につける機会を与えることで、生徒が学校から離れても、どのような学校教育や職業に就いても、クリティカル・シンキングを続けることができるのです。
そして、子供たちは新しい情報を使って何かをする時間が必要なのです。私たちはしばしば、日本の学校から来た生徒や、自由時間に予定を入れすぎている生徒を見てきました。このような生徒たちは、新しい情報を応用したり、問題を提示されたときに新しい解決策を生み出したりするのに苦労することが多いです。情報を暗記する方法や、指示を聞いて従う方法は知っていますが、自分自身のアイデアや解決策を考え出す方法を知りません。ある分野で学んだ情報を別の分野に応用する方法を知らないのです。これまで直面したことのない課題に挑戦したり、自主的に取り組んだりすることを求められると、途方に暮れてしまいます。そして、大人である私たちに明らかなことがあるとすれば、それは、私たちが常に挑戦されたり、変化に適応することを求められたり、これまで経験したことのない仕事を引き受けることを求められたりしているということです。
私の机には "カオス・コーディネーター "と書かれたカップがあります。CGKにIB(とMs. Darby)を導入したことで、多くの変化がありました。新しいカリキュラムのアプローチを取り入れただけでなく、学業水準や学習全般をどのように改善できるかに取り組んでいます。また、新しい学習管理システムを導入し、生徒のポートフォリオ、進捗報告、ご家庭とのコミュニケーション、そして私たちのプランニングを統合しました。そして、生徒数の増加や図書館への要求の増加に合わせて拡張できるデジタル・ライブラリー・システムも導入しました。私はCGKにこれらを導入するまでは、どちらのシステムも使ったことがありませんでした。他の誰も使ったことがありませんでした。システムの使い方を聞ける人がいなかったので、システムを学ぶのに時間はかかりました。わからないことがあったときに質問できる人もいなかったです。私が持っていたのは、退屈に過ごす時間がたくさんあった子供時代に培った批判的思考力と創造的思考力でした。そして、他のプログラムで理解したことの一部を応用することができたのです。いろいろなことを試し、提示された問題に対する解決策を考えることができました。自分の学歴が物事を理解するのに役立ったことはもちろんですが、自分の部屋で一人、自分の頭だけで考えた時間も、物事を理解することができると自分を信じるのに役立ちました。
退屈は、計画性、問題解決能力、柔軟性、整理整頓能力など、普段から構造化された生活を送っている子供には欠けている重要な能力を発達させるのにも役立つ、とチャイルド・マインド研究所の教育専門家、ジョディ・ムソフ(MA、MEd)は付け加えます。「重要なのは、子供が退屈をコントロールする方法を学ぶことで、自立心を養い、自分の幸せや幸福を自分でコントロールできるようにすることです」とリー博士はアドバイスします。何が自分にとって意味があることなのか、子供が本能的にわかることを親は期待してはいけません。その代わり、「親は子供が興味を持っていることや、気にかけていることを思い出させるべきです」とウエストゲート博士は言う。「何もすることがない部屋に子供を置いておくのと、本やパズルなど、子供にとって意味があるとわかっている部屋に連れて行くのとでは、雲泥の差です」と彼女は言います。そして、親はそのプロセスを信頼し、子供が退屈からスキルを身につけるための時間と空間を与える必要があるのです。
子供の頃、本当に自由な時間があったことを覚えています。午後は(そして夏の間も!)、計画された活動も授業もスクリーンもなかったことを覚えています。これは、スマートフォンやタブレットが登場するずっとずっと前のことです。時々テレビを見ることもありましたが、私の家では制限があり、正直言って退屈していました。母はそばにいましたが、私を楽しませたり、活動をさせたりすることに多くの時間や労力を費やすことはなかったです。その代わり、母は私の世代の子供たちの多くが慣れ親しんだ "遊びに行きなさい "という言葉を言うだけでした。「遊びに行きなさい」とだけです。「手の込んだ工作をしてあげる」でもなく、「5年後の受験に有利になるように、数学のクラスを追加してあげよう」でもなく、「このビデオゲームをしなさい。少しは役に立つかもしれないけど、泣き言を言わなくなるわよ 」でもありませんでした。ただ、「自分で考えて遊びになさい。」だけです。
だから私はそうしていました。外で遊んだり、外でバスケットボールをしたり(下手くそだったけど)、自転車に乗ったり(結構上手でした)、ローラースケートをしたり(速くてどこでも滑っていました)、アメリカンフットボールをしたり(意外と上手でした)、他の国ではフットボールと呼ばれているが私たちはサッカーと呼んでいるあのゲームをしたり(ボールがネットに入るのを防ぐことに関しては本当に上手でした)。家の中では、本を読んだり、絵を描いたり、物語や詩を書いたり、ごっこ遊びをしたり、空想にふけったり、部屋の整理整頓をしたり、数え切れないほどの趣味や工作に挑戦しました。友達と遊ぶとき、従来のゲームに飽きたら、自分たちでゲームを作りました。自分の部屋でやることがなくなったら......そんなことはありませんでした。
やることが尽きたことはありません。もちろん退屈することはありました。そしてもちろん母には文句を言っていました。でも、実際にやることが尽きることはありませんでした。最悪の場合でも、私は空想にふけり、たいていの大人は子供が考えられるということを忘れてしまうような問題や話題について考え始めていました。見かけたホームレスの人について、なぜその人がホームレスなのか、私たちに何ができるのか、何があってそのような状況に陥ったのか、といったことを考えたことを覚えています。宇宙は永遠に続く可能性があり、私が人生で知るすべてのことには始まりと終わりがあり、その範囲は有限であるため、それを完全に理解することはできない、という宇宙の本質について考えたことも覚えています。大人になったら何をしたいかを考え、自分の将来をさまざまに想像していたこともあります。そこで、どんなことがあっても私は他の生き物の世話をする必要があると理解したことを覚えています。一時は獣医として動物の世話をすることになるだろうと思っていましたが、実際はみなさんがご存知の通り、教育者になることで他の人々助けることに決めました。
そんなことを考えたのは、すべて小学生のときでした。年齢を重ね、より多くのことを学ぶにつれて、退屈な時間こそが、すでに確立していた自分の部分に新しい理解を取り入れることを可能にしてくれたと分かります。遊ぶことも、気を紛らわすことも、自分から切り離すことも、何もない時間があったからこそ、自分が自分であることが本当に心地よく感じられるようになり、学び続ける意欲が強まりました。また、自由に創造することもできました。ゲームを作る。ビジョンを描く。問題を創造し、解決する。もし両親がいつも私の予定を埋めて忙しくさせていたら、このように自由に作り出す機会には直面しなかったでしょう。私は自分の頭脳以外に何もなかったのです。
退屈している間に、自己意識、自信、問題解決能力を養うことができました。カオス・コーディネーター(校長、PYPコーディネーター、司書、ITサポートという意味)としての私の役割では、マニュアルやステップ・バイ・ステップの指示がなくても、自分で物事を解決する能力は非常に貴重なものです。もちろん、失敗することもあります。しかし、失敗をするたびに、そこから学び、成長する機会があるのです。そしてそれは、退屈さが私たちが本当に上手になるのを助けてくれる部分でもあります。
最後に、子供たちが情熱の赴くままに行動できるようにしてあげてください。スポーツや楽器、美術教室に参加させてください。CGKアフタースクールに参加させてください。週末に家族でアクティビティを計画してください。子供と一緒に遊んでください。しかし同時に、定期的に、意図的に、退屈させてあげてください。
著者プロフィール
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Darby - 初中等部・スクール長 & IB PYPコーディネーター (アメリカ)
CGKインターナショナルスクール初等部・スクール長 兼 IB PYPコーディネーター。アメリカ・ニューヨーク出身。
自身も国際バカロレアIB DPの卒業生であり、30年以上にわたって、子どもたちへの教育とIB教育へ情熱を注ぐ。教育学修士号を取得。